患者の達人
腹膜透析の情報誌「スマイル」
2016年スマイル秋号 腹膜透析(PD)と共に自分らしく暮らす患者さんをご紹介します。
記事の内容、執筆者の所属等は発行当時のままです。
PDの処方は医師の判断に基づき行われます。また、「患者の達人」の記事には患者さん個人の感想・意見が含まれており、全ての方に該当するものではありません。

「73歳まで仕事を続けたい」と考え、迷うことなくPDを選択
20年前に「じぇら21」というジェラート店を群馬県富岡市に開店した古舘さん。もともとはお隣の甘楽町(かんらまち)で35年間、酪農を営んでいました。高校卒業後すぐに家業を継ぎ、多い時で100頭近い牛を飼っていたそうです。「店を開いて最初の10年くらいは酪農と両立していましたが、10年前に女房が亡くなった時に酪農は辞め、ジェラート店だけにしました」。
写真:左から、神戸ノベリンさん(看護助手)、酒井季実子さん(看護師)、古舘さん、町田昌巳先生、飯野まり子さん(看護師)
古舘さんのジェラートは地元で採れた食材を利用して添加物を一切加えずに作ります。さっぱりとした甘みと素材の味が濃厚で、多い時は1日千個以上売り上げるほどの人気です。
忙しい毎日を送る古舘さんですが、実は20歳の頃から血圧が高く、30代から高血圧の薬物治療を続けてきました。40歳を過ぎた頃、医師から腎機能の悪化も指摘されたそうです。
そして60歳の時、突然左肩に強い痛みを覚え、公立富岡総合病院に駆け込みます。診断は、冠動脈の閉塞による心筋梗塞。2本ある冠動脈のうち1本は完全に塞がっていました。すぐにバイパス手術を行い、回復しますが、翌年には胆管炎を2度発症するなど立て続けに病気に見舞われました。その間、腎機能も徐々に悪化。近々透析が必要と医師から告げられたのは2014年頃、クレアチニン値が8まで上がった時でした。主治医に「仕事を続けたい」と訴えたところ、腹膜透析(PD)を紹介されます。「その少し前にアイスを作る機械を買い替えていて、ローンが73歳まであるからあと10年は働こうと思った。APDは夜間に透析ができると聞き、そんないいものがあるならと迷わず決めました」と古舘さん。手技の習得にも積極的に取り組み、2015年からPDを導入しました。当初は操作を間違えることもありましたが「一度失敗したら覚える」と持ち前の前向きさで乗り越え、現在はずっと体調が良くなったと笑います。
「住んでよかった」「住んでみたい」と思う町をつくっていきたい
古舘さんには仕事のほかにもう1つ、大切なライフワークがあります。それは、自分を育ててくれた甘楽町を活性化すること。「酪農をやっていた頃は自由な時間が少なく、旅行にも行けませんでした。子供をディズニーランドにも連れて行ってやれない。30歳の頃、そんな生活に疑問を抱いて悩んだのですが、ふと『自分の住む町をワンダーランドにすればいい』と気づいたんです」。以来、地元のサッカーチームをつくったり劇団の興行を行ったり、自然休暇村協定を結んでいた東京都北区と、町主催ではなく一般市民による集団お見合いを企画するなど、数えきれないほどの活動を手がけてきました。現在は総務省から委嘱された行政相談員も務め、最近では新設された町の行政不服審査会の会長にも任命されました。「外部に向かって『いい町だから来てよ』と言うのでなく、ここに住んでいる人が『この町に生まれて、暮らしてよかった』と思えるのが本当の町づくり」と話します。
また、最近は忙しい日々の合間を縫って旅行にも積極的に出かけています。旅行の時はAPDからCAPDに切り替え、「生前はどこにも一緒に行けなかったから」と亡くなった奥様の写真を持っていくことも忘れないそうです。
「同じ病気で悩んでいる人に自分の生活をみてほしいし、そのためにも頑張らなきゃと思う」と語る古舘さん。最後に「人生は楽しむためのもの。苦労はあっても、乗り越えた先は必ず笑顔になれるはず」と力強いメッセージを贈ってくださいました。
ドクターからのメッセージ
公立富岡総合病院 泌尿器科
診療部長 町田 昌巳 先生
古舘さんは透析療法が必要になると、積極的にPDを選択されました。医療者側から見ても、手と目と頭がしっかりしていて、仕事や社会活動に意欲的であり、PDの条件を満たしていました。また、心臓手術の経験があり、マイルドな除水を行うためにもPDは好都合でした。CAPDで導入して、APDへの移行も手技的に問題なく、導入後鼠径ヘルニアの手術も行いましたが特に問題ありませんでした。現在も朝からジェラート屋さんの仕込みで忙しいそうです。もし富岡製糸場を見学される時は、お店まで足をのばしてみてはいかがでしょうか?